仕事から帰ると無人。ここぞとばかり音楽室へ直行し、引き続きエレキギターのダビング。間奏の部分リピートをし、リードギターの納得いくフレーズや質感を探りながら、イメージに近づくほどに鮮度は落ちていっているような気もする。鮮度、というと魚が浮かぶ。寿司を握ることと即興演奏は似ているのだろうかとか考えてみる。そういう比喩を使っていたミュージシャンがいた。よく食べ物で何かしらを例える人がいる。食べ物とそれらは違うので、どこか腑に落ちなさが残るのだが、ただ比喩を使用するだけで心底納得できる人などいるのだろうか。詐欺師的なテクニックでしかないのではないかと、具体的に以前の職場での営業トークのことを思い出しながら、あのひとは今、夜眠れているのかなとか思ったりもした。自分を欺くっていうか、うまく組織するというのは、相当に難しいことだと思う。
手よりもでっかい頭のほうばかり稼働していけないので録音をやめて、今度即興演奏のライブがあるので、それの練習のようなことに移行。森田さんのセッティングで 4/27(土)に西森一樹さんとデュオをすることになっており、ぶっつけ本番でやることになっているのだが、ぶっつけ本番とは、それまでの間何にもしないことではないように思うので、西森さんのsoundcloudでソロで演奏している音源を聴きながらそれに合わせてギターを弾いてみた。西森さんはシンセのピッチと何かのチューニングしようとしているように演奏している気がする。その「何か」は自分の今の気分となのかもしれない、と思う。以前見たライブ演奏からも、そんな思索のような雰囲気を感じた。何かとチューニングするというのは非常に真面目でいて面白い行いでもあるように思う。セロニアスモンクは調律されたピアノのチューニングを変えていたらしい。自分の感性とピアノのチューニング?ビルフリゼールは、いつもギターのピッチがずれているように感じて、ネックを揺すりながらピッチ調整をしていた。するとずれていなかった弦のピッチが今度はずれるのでまたネックを揺する。「浮遊感のある音」とかもよくカジュアルめに使われる比喩だが、ビルさんの場合比喩ではなく実際に揺れ続けている。絶対的なものがないことを前提にした姿勢に浮遊感がある。僕と西森さんは多分2回ライブで共演した(一緒に音を出した訳ではない)上に、ちょっとした会話を交わしたくらいの関係なもので、ライブはチューニングを楽しめるかどうかにかかっているようにも思う。自分のレギュラーチューニングをしてライブに臨むのが吉かもしれない。自分のレギュラーチューニングってなんだ。そういうのを掘り下げていくのが練習なのかな。いや、運指練習も練習だし、エフェクター研究も練習だ。また頭がでっかくならないように色々やってみよう、とか思っていると家族帰宅。家事に戻った。