2024年3月29日

日記

3/28
仕事から帰ると無人。ここぞとばかり音楽室へ直行し、引き続きエレキギターのダビング。間奏の部分リピートをし、リードギターの納得いくフレーズや質感を探りながら、イメージに近づくほどに鮮度は落ちていっているような気もする。鮮度、というと魚が浮かぶ。寿司を握ることと即興演奏は似ているのだろうかとか考えてみる。そういう比喩を使っていたミュージシャンがいた。よく食べ物で何かしらを例える人がいる。食べ物とそれらは違うので、どこか腑に落ちなさが残るのだが、ただ比喩を使用するだけで心底納得できる人などいるのだろうか。詐欺師的なテクニックでしかないのではないかと、具体的に以前の職場での営業トークのことを思い出しながら、あのひとは今、夜眠れているのかなとか思ったりもした。自分を欺くっていうか、うまく組織するというのは、相当に難しいことだと思う。
手よりもでっかい頭のほうばかり稼働していけないので録音をやめて、今度即興演奏のライブがあるので、それの練習のようなことに移行。森田さんのセッティングで 4/27(土)に西森一樹さんとデュオをすることになっており、ぶっつけ本番でやることになっているのだが、ぶっつけ本番とは、それまでの間何にもしないことではないように思うので、西森さんのsoundcloudでソロで演奏している音源を聴きながらそれに合わせてギターを弾いてみた。西森さんはシンセのピッチと何かのチューニングしようとしているように演奏している気がする。その「何か」は自分の今の気分となのかもしれない、と思う。以前見たライブ演奏からも、そんな思索のような雰囲気を感じた。何かとチューニングするというのは非常に真面目でいて面白い行いでもあるように思う。セロニアスモンクは調律されたピアノのチューニングを変えていたらしい。自分の感性とピアノのチューニング?ビルフリゼールは、いつもギターのピッチがずれているように感じて、ネックを揺すりながらピッチ調整をしていた。するとずれていなかった弦のピッチが今度はずれるのでまたネックを揺する。「浮遊感のある音」とかもよくカジュアルめに使われる比喩だが、ビルさんの場合比喩ではなく実際に揺れ続けている。絶対的なものがないことを前提にした姿勢に浮遊感がある。僕と西森さんは多分2回ライブで共演した(一緒に音を出した訳ではない)上に、ちょっとした会話を交わしたくらいの関係なもので、ライブはチューニングを楽しめるかどうかにかかっているようにも思う。自分のレギュラーチューニングをしてライブに臨むのが吉かもしれない。自分のレギュラーチューニングってなんだ。そういうのを掘り下げていくのが練習なのかな。いや、運指練習も練習だし、エフェクター研究も練習だ。また頭がでっかくならないように色々やってみよう、とか思っていると家族帰宅。家事に戻った。

2024年3月28日

何度も再開

3/26-27
仕事の合間、お昼時に自宅に戻る。土砂降り。玄関に上がりレインコートを脱ぐ時、一刻も早くこの気持ち悪い状態から抜け出したい本能と靴下を濡らさないように慎重になるせこい動作が拮抗している。

さっさと事務所に戻らないと行けないので、食事はなるべく割愛せねばならない。電子レンジでご飯と残り物のおかずの温め。その数分の間に手を洗ったり荷物を解いたり、慌ただしくお茶を飲む。トレーに一式載せて自分の部屋で食事。作りかけで放置していた「飛騨の山」という曲の音源を聴きながら食事を頬張る。中島らもといしいしんじが「飯って目の前のものを腹の中に移動させるだけって感じでめちゃくちゃめんどくさい」というような対談をしていたことを思い出すな。

食べ終わり、パソコン台の下からスッとMIDIキーボードを取り出し、電源タップをONにする。音楽制作というより事務作業のようだ。ライフハックされ尽くした私のコックピット。ベースラインを白玉のピアノ音で打ち込む。暗雲立ち込めるようなゴーンという響き、お葬式のような重苦しさがあって、ベースでは出ない雰囲気がある。ジョニーキャッシュのman comes aroudとかhurtあたりの曲を思い出す。あのアルバムから受けた印象が自分の引き出しにしまわれていたのかもしれない。確か大学生の卒業前後くらいに、ピーターバラカンのラジオで耳にしたのだった。確かとっさにMDに録音して、繰り返し聴いたな。同じ放送で、ジョーストラマーがカバーしたリデンプションソングの弾き語りがかかったのも覚えている。そういえば、ジョニーキャッシュのこの時期のアルバム(セルフタイトルに数字が当てられたようなシリーズものだったように思う)が10年以上前の森田さんのイベントでseで使われていて、ギャルリーチガーヌという場所だった。その時出演していたのが誰だったとかもうほぼ忘れているけれど、この曲のことだけが明確に残っている。「今日かけていた曲はなんですか」と執拗に尋ねたのだった。みんな若かったなあとか望郷のような情緒になる。

翌日の夜、ピアノを入れた「飛騨の山」にエレキギターを重ねてみる。元々入れていたシンセサイザーは音色にもリズムにも躍動感がなくって、フレーズをギターに置き換えてリプレイ。やっぱり自分が音楽にうねりを加えられるとしたらギターか歌だなと思い、シンセをミュート。針金を曲げて動物とか楽器を作るあの技術、自分にとってはギターがそのためのツールかもしれない。腕が鈍っていて手が自然に導かれない感じがあり、とりあえず録音を保存して家事に戻った。