2019年1月1日

12.30

アーサーラッセルのドキュメンタリーを観ました。何か表現したい気持ちをあたえてくれる良い映画でした。
 
アーサーさんの音楽の多様性は、もちろん天性の才能もあるのだろうが、それでいて近寄りがたさはなく、親しみを持てる・身近に感じられるものでもある。それは多分、アーサーさんの音楽が、すごくプライベートなものだからなのだろう。音楽史に対峙して批評的に自分をそこに置くのではなくて、もっと個人史に忠実に音楽を組み立てていっている感じがする。この音楽の複雑さ・個性は、音楽的な構造(ももちろんあるのだが)よりも、一人のひとの人格の複雑さからきている感じがする。それを丸ごと認めて音楽にしてしまうという意味では、すごくストレートな表現だとも思った。
 
あわせて、ご両親との家族のあり方について思いをはせてみる。アメリカの片田舎で生まれ育ち、当時のそういう地域では珍しい関係というか家庭環境だったのかなと思う。(地域性うんぬんは、全部勝手な印象なので、思い込みだったらすみません)
両親の「子供を理解をしようとする」ということ以上に、「理解できないことに対する距離の取り方」を、とても立派で知性的なもののように思う。そして、知性的であること・子供の感受性に羽を与えることは、必ずしも、良好な、ぴったりとついて離れない家族関係につながるわけではないとも思う。むしろ、子供が成長して自我を持つからこそ、時には両親とは相容れない感性を持つのだろう。それを(時には床に叩きつけてしかることもあったみたいだけど)認めて受け入れていく過程というのは、できそうでなかなかできない、難しいことなんだろうなと思う。

映画のタイトルは、曲名にちなんで Wild Combination 。直訳すれば、荒々しい組み合わせ・つながりという感じだろうか。もともと別に存在していた曲名だけれど、奇しくも、家族との関係性、それぞれの家族が抱える心情、そしてそれが反映された音楽性などに、ぴったり当てはまるタイトルだと思う。いびつで、時に相反する感情(や音楽)をつなぐのは難しい。けれど、そのうちの何かを見逃してしまったり、平坦にしようとコントロールせずに扱う。難しいもの・複雑なものを、複雑なままつなぐ。そうすることで自分の個人史が自ずと音楽として形作られていく。そんなことを考えた。映画の中で、この曲の制作には、特別長い時間(たしか5年)がかかったと紹介されていた。結局完成されず死後に発表されたアルバムに収められたそれは、自分の歴史をつないでいくライフワークのような作業だったのかもしれないと思った。感傷的すぎるかなあ。


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