2011年3月17日

今朝、よくCDを購入してるカナダのレコード会社の方からメールがあって、
"いま日本で起きている事をとても心配している。あなたや家族、友達が大丈夫であることを願っている"
というようなあたたかい言葉をもらい、さっきお礼の返事を返した。
自分のおもうところを、限られた語彙の英語に置き換えていく中で、少し整理できたような気がする。
いろいろな知識(と言えたものかわからないけれど)のフィルターを通ってしまうことで、正直なところ、自分が今度の事をどう感じているのか、よくわからなかった。ひとつの感情を指す言葉で自分の気持ちを言ってしまうのが、まちがったことのように思えたし、何かに対して失礼なことのような気もした。天災は、自分が意見するには大きすぎるように思えたんだった。
とはいえ、それから数日の間に、そればかりの被害でもない、人災といってもいいことが起こってしまったのを知らされて、人がいるから起きてしまった事には、自分なんかにでも関わる余地があるように思えた。
そのとき限りでなくて、いつまでも残していかないといけないことがある。そういうやり方なら、あまりにささやかながら、自分にも何かできる気もする。
そのとき限りしか出来ないもことも、またある。でもそれは、やっぱり自分にはうまく出来ない気がしてしまう。何と折り合いをつけようとしているんだろう。自分とか。それは自分を大事にしすぎている気もするけれど。
やってから考えても良いことも少しはあるし、いまはそういうときのようには思うけれど。
絲山秋子の『海の仙人』という小説の中に、
偽善は、今居る場所から一歩も動かないで何かを言う事だけど、あなたはちゃんと何かをしているからそれは偽善じゃないと思うよ、
みたいな会話があったはず。また、うろ覚えだけれど。
それから、金子光晴という詩人が「わたしたちの仕事はただみているという事でしょう」と言っていた。
どちらもその通りだと思うし、反対のことを言っているようにも思わない。最近、このふたつの言葉のことを、気づけばふと考えている。
たぶん自分が、そのどちらも出来ていないからだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿